『恥辱』J・M・クッツェー 訳:鴻巣友季子


ひさしぶりに一冊読みました。家庭内読書会、第19回課題本です。


まずタイトルが好きではありません。読みたいと思えなくないですか?「恥辱」なんて。でもノーベル賞作家がブッカー賞をとった作品なんだと、課題本に指定した方が強い調子で推すので、あまり気乗りはしなかったものの、読むことにいたしました。


好きなシーンも、好きな表現も、好きな登場人物も、いませんでした。反対に、嫌いなシーンも、嫌いな表現も、嫌いな登場人物も、特に思い浮かびません。主人公に対して、ほとんど何の興味もわきませんでした。この人がどこで何をしようが、そこで何を思おうが、別にどうでもいいやという気分でした。楽しさも感じなかったかわりに、腹が立つこともなく、悲しいと思うこともなく、共感はどこにも現れないままに小説は終わってしまいました。


でもブッカー賞。どのあたりがどう評価されているのかとは、当然考えてしまいます。そうして自分のもつ引き出しをあちこちつついてみて、うっすらと浮かんできたのは、なるほど、もし自分が主人公と同じ52歳の男性だったら、わかることがあるのかもしれないという仮定。


そうしてひとり、ある知り合いの人物を思い出しました。あんまり似ているとも思えないのですが、主人公と年齢が近いせいでしょうか、なぜかその人を思い出し、もしその人がこの作品を読んだらどんな感想を持つだろうかと想像してみました。嫌悪感をしめすかもしれないとも思うし、ほんの一部であれ共感をしめすかもしれないとも思えます。結局のところ、わたしはその人が本を読んでどんな感想を持つか予想できるほど近しい間柄ではなかったのでわからないのですが、ただその人なら何かを理解できるのかもしれないなとは思います。


今はまったくの疎遠であるその人が近くにいた頃、その人のことをわたしは「魅力的な大人の男性」だと思っていました。でもわたしにとって魅力的だということではなく、「この人はきっと様々なところで魅力的な大人の男性と評される人なのだろうな」と思っていました。実際そうだったと思います。でも「どこに行ってもたくさんの人の目に魅力的に映るのだろうな」と、わたしはその人にほとんど会うたびに思っていたのに、わたし自身がその人のことを「魅力的」だと思うことはありませんでした。


もしわたしが主人公と同じ52歳の男性だったら、この作品を読んでなにかわかることがあるのかもしれないけれど、この作品を読んで何かがわかる、あるいは共感できる、そういう52歳の男性になれたらいいなと、30代の女性であるわたしは、あまり思いません。知り合いのその人を魅力的だと思うことがなかったのは、その人がわたしにとって、この作品を読んで思い出されるような人だったからなのかもしれないなと、ふとそんなことを考えました。


ちなみに、名もなきその知人の男性の名誉のために言い添えておきますが、決して「主人公のような人」だったわけではありません。どうぞ誤解なきよう。