『すべてがFになる』森博嗣


家庭内読書会第22回課題本「森博嗣を読もう企画vol.3」の、はずなのですが、家庭内で異論があり(しかも強情な)、改題を求められましたので(しかもほとんど強制的な)、カウントのリセットおよび企画名を変更することといたします。


というわけで、改めて。


家庭内読書会「森博嗣完全読破」企画、第一回課題本。です。


約4年ぶりの再読。トリックも犯人も全然覚えていなくて、また一から謎解きにも挑戦できたし、物語の進行も楽しめました。登場人物も、事件現場も、トリックも、とにかく派手でインパクトがある。デビュー作としては申し分のない作品ではないでしょうか。実際この作品は、書かれた順番からすると4作目にあたるそうで、森博嗣はこの作品の前にすでに3作品を書き上げていた。編集部はすでに4作品あった中から森博嗣のデビュー作としてこの作品を選んだのだそうです。

それにしても派手ですよね。登場人物も、事件現場も、トリックも。と同じことを2度書きますが。真賀田四季という天才、孤立した島の研究所、デボラやミチルという名のロボット、どこよりも高度なコンピューターシステム、などの非日常な環境設定。そこで起きる空前絶後の事件。全身が凍りつくような。

「彼女」しかいなかったはずの部屋で「彼女」は殺されます。いや、自殺なのかもしれない。でもたとえ自殺であったとしても、もうひとり別の誰かがいたと考えるしかない「姿」で「彼女」は死んでいる。鮮やかなシーンです。

中でも「黄色いドア」のトリックは見事ですよね。隠されたプログラム。カウントされる数字。来るべき時を待つ「F」。でもわたしはそういう見事なまでに鮮やかなトリックを考える人が、「こうして」人を殺したことが腑に落ちない。そしてこの作品に限ったことではなく、犀川・西之園シリーズを読んでいて共通に思うことですが、わたしは森博嗣の、あるいはこのシリーズの「スタイル」がいまひとつ掴めない。「こうして」人を殺すことが、わたしがこの物語の進行とともに思い描いた「スタイル」とは違っていたように。

小説に限らずどんな「作品」にも「スタイル」ってあると思うんです。「ルール」といってもいいのかもしれないけれど。言葉で具体的にされるわけではない、その作品を貫いていて、象っているもの。そういう「スタイル」が、いまひとつ掴めない。物語のスタイルもそうだし、キャラクターについてもそう。たとえば主人公の犀川先生は、その人物像の輪郭をわたしなりに描くことはできるのだけど、その輪郭線がどうも実線にはならず、点線なのです。それでも実線に近づけようとして点をこつこつ増やしていくのだけど、その途中で犀川先生は、点線の隙間からはみ出るようなことをしたり、言ったり、思ったりするんですよね。それでまた描き直し。実線はいっこうに出来上がらない。
本作で言えば、真賀田四季もそう。物語の最初のほうではわりとしっかりとした輪郭を描けていたのに、進行するに従ってだんだんと薄くなっていって、最後には消えてしまった。結局どんな人だったのか、ちっともわからなくなってしまった。


わかるときがくるかなぁ。



追伸
どうでもいいことですが、このたびのカウントのリセットおよびタイトル変更に伴い、前回と前々回の『笑わない数学者』と『冷たい密室と博士たち』のカウントとタイトルも変更しました。わたしは読んだ順番でいいと思うのだけど、家庭内の森博嗣ファンは、「F」を第一回で飾りたいようです。