『われらが歌う時』リチャード・パワーズ 訳:高吉一郎


2009年以来の再読。あれから4年半。

白人の物理学者デイヴィッドと、黒人の音楽学生ディーリアは、あるコンサートで知り合って恋に落ちます。そして、ふたりの間に生まれた三人の子供たち。物語はこの家族の軌跡を辿ります。

白人と黒人の両親、その間に生まれた子供たち。アメリカ社会における人種差別問題。それがこの物語の根幹にあります。

家族の物語は物語として、そこには好奇心や恐怖、膨らむ期待、目に見える神秘、聖なるものの美しさがあって、そう、深海を泳ぐような、時間と水とが溶け合うような、重厚で柔らかな世界があります。けれど、その世界をわたしは存分に味わうことができなかったと感じています。最初に読んだときに、どうやってくぐり抜けたのかわからないくらいショックな章が上巻の前半にあって。結局最後まで、ずっと、そのショックを引き摺って読むことになりました。

「エメット・"ボボ"・ティル」という黒人少年の実際にあった事件が、この小説の挿話として詳細に記されています。それは物語の海のどんなに深くまで潜っても、常にわたしの読書の深海の端で、太陽の強烈な光を逃れることができないまま照らされていたように思います。

こんなことが起きていた社会で、こんなことがまかり通っていった国で、今、バラクフセインオバマ大統領がいるということには、胸がふさがるほどの感嘆を覚えずにいられません。

アメリカに黒人大統領が誕生したということ。そのことをもって、わたしは「人類はよくやった」と思ったのです。

よくやった、なんてまるで褒め言葉のようだけれど、もちろん賞賛するべきことではないはずです。今までが間違っていただけのことで、それも大きな間違いの一部が修正されただけのことで、決して褒め讃える対象ではないはずです。でも、ある社会で蔑まれる対象にされていた人たちが、蔑む側に立っていた人間と、眼差しを対等に交わすようになるまでには、暗くてその広さや深さもわからない湖の対岸に、小石をひとつずつ投げ入れて橋を架けようとするような、見えない道を描く必要があったと思うのです。描き続ける必要があったと思うのです。その気の遠くなるような、永遠とも思えるような、想像を、夢を、祈りを、人類が少なくともひとつ叶えたということには、よくやった、と思えたのです。

二つの世代に沿って交互に語られる二つの物語が一千侯頁に渡ってきつく縒り合わされた本書を読み終わる頃には、読者は経験不可能で想像不可能だったはずの二十世紀アメリカの人種問題を生きてしまっている。


こう書かれた訳者のあとがきに対して、前回の感想文でわたしは「たしかにその通りだったな、と思います。」と書いています。

全然そんなことなかった。ひとつも経験できていなかったし、今ももちろんできていない。これからもきっと。

もしいつかわたしの前にも暗い湖が現れたなら、わたしに小石を投げ続けることはできるだろうか。