『幻惑の死と使途』森博嗣

家庭内読書会「森博嗣完全読破」企画、第七回課題本です。これまでもワルクチが多いから、ホメクチも書きたいと思うけれど、今回もワルクチ。


有名なマジシャンが、脱出ショーの最中に殺されて、さらに葬式では、霊柩車からその遺体が消失。というのがこの物語の中心事件。その解決に、わたしのあんまり好きになれない西之園萌絵が首をつっこみ、わたしのあんまり好きになれない犀川創平先生がなんとなく巻き込まれる。というのはシリーズの変わらないパターン。

今作では、萌絵ちゃんはともかく、とくに犀川先生の言動に眉をひそめることになりました。

萌絵ちゃんが首をつっこむ事件に、あくまで無関心な態度を示すこの先生は、しかしいつも事件の解を、比較的早い段階で自ら手にしているのに、証拠がない、とか、興味がない、とか言いながら事件とは無関係の日常をそ知らぬ顔で過ごし、萌絵ちゃんが解決にたどり着いたところで、最後には自ら探偵よろしく、萌絵ちゃんの解の訂正とともに自らの解をすすんで披露する、という役割の人です。

その「役割」もさることながら「キョウミナイ風」が彼のキャラクター設定だから、そう受け止めてこれまでこのシリーズを読んでいたのだけれど、今作ではどうしても気になった(気に入らなかった)ことがあったのです。それが、このセリフ。

「人を殺した人間を賛美するつもりはないけれど、確かに、そんな生き方も、綺麗だと思う」


完全に賛美だし。もし、賛美のつもりで「綺麗」だと言っていないのだとしても、人を殺すことをその人生の中に含めた人の生き方を「綺麗」だと「人前で」発言するのは、「研究者」のすることではないと思う。犀川先生は「研究者」であり「教員」でもあります。大学の助教授です。もちろん持論だけれど、そういう立場の人は、人前でこのような発言をするべきではないと思う。この事件の犯罪にそういう見え方があることを読者に示したいのだとしたら、彼の「ひとり言」として書いてほしい。


以前にも森博嗣作品についてわたしは、「タイプじゃない」というようなことを書いているのだけれど、研究者たる犀川先生に、そんなことを言わせてしまうところがやっぱり、わたしのタイプじゃない。