『スロウハイツの神様』辻村深月


朝の読書習慣2015の13

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)


人気急上昇中の脚本家と、中高生に絶大な人気を誇る小説家と、その小説家を世に売り出した敏腕編集者と、映画監督の卵と、漫画家の卵と、画家の卵と、どこからともなく現れた美少女、

の七人が、ひとつ屋根「スロウハイツ」で交わす物語。

映画監督の卵が作品を認められたり、画家の卵がなんだかダメそうな男に熱をあげて出て行ったり、漫画家の卵が投稿作品をちっとも認められなかったり、脚本家に恋人らしき人物ができたりと、ありていに言ってしまえば夢と恋愛に関する個々のエピソードの集まりで物語はできているのだけれど、それらはなくてもいいのではないかと思えるくらい別の話がメインです。


小説家はチヨダ・コーキといいます。彼のファンを名乗る人物がインターネットで自殺志願者を募り「チヨダ・コーキの小説の真似をして」、「殺し合い」の集団自殺を行い、参加者15名が全員死亡した、というのが10年前の事件。事件後、チヨダ・コーキは小説が書けなくなり、何も食べられない、眠ることもできない、抜け殻のような生活を過ごすことになりました。

その頃の千代田光輝は死にたかった。

そんなときにある少女の投書が新聞に掲載されます。「わたしはチヨダ・コーキの熱心なファンですが、生きているし、人を殺そうとも考えませんでした」と。「チヨダ・コーキの小説は決して人を殺したりはしない」と。事件直後から新聞社に毎日届けられた128通にもなる手紙は、一心にチヨダ・コーキの小説が自分を救ってくれたことを訴えていました。

千代田光輝は少女に会いたい、と強く願います。そして見つけ出す、その、物語です。


映画監督の卵が作品を認められたり、画家の卵がなんだかダメそうな男に熱をあげて出て行ったり、漫画家の卵が投稿作品をちっとも認められなかったり、脚本家に恋人らしき人物ができたりという夢と恋愛に関する個々のエピソードの集まり、は、その物語とはなんの関係もないし、さらには、彼らがひとつ屋根の下で暮らす必然性もあまり見つかりません。お風呂とトイレが共同だという設定なのに、誰も一度もお風呂とトイレで出くわすシーンがないことに違和感を覚えてしまうのは、そのシーンがないから、というだけではなくて、そもそも「ひとつ屋根の下で暮らしている空気」が感じられないからかもしれません。たとえば、自室にいても廊下を誰かが歩く音が聞こえてきたり、住人の誰かが部屋に帰ってきた気配に気がついたり、元気がないな、とか、様子がおかしいな、とか、生活上の癖とか、嗜好とか、食べ方とか、座り方とか、そういう「誰にも何も言わないようなことだけれど、一緒に暮らしているとわかってしまう」というのがなくて。あったのかもしれないけれど、伝わってこなくて。


もうひとつ。


わたしが感じた別の大きな違和感は、新聞に投書を続けた少女が、チヨダ・コーキの小説と出会ったときの話です。

新しい学校でできた友達に、少女は何一つとして自分の話ができなかった。笑ってあたりさわりのない話をすることにも疲れてしまい、徐々に一人で過ごすことが多くなっていった。
その時になって、ほとんど初めて、図書館を使ったのだ。それまでは望むものは全部母が買ってくれていたから、本を借りたことなんかなかった。少女が通った祖母の家近くの図書館には、ビデオやDVDの貸し出しサービスもあって、ヘッドフォンをつけてそれらを観られるスペースもあった。無差別に本を読み、映画を観て、少女の頭はスポンジが水を吸収するような速さでそれらを飲み込んでいった。作者の名前やジャンルにこだわらず、ただただ夢中でそうするうち、ある時、気付いたのだ。
文庫でも、ノベルスでも、ハードカバーでも、ある作家のものを読んだ後に、心に深い影響が残ること。ただ感動することもあれば、泣きたいほど切ない気持ちになることもある。考えさせられ、悩み続けることもある。それがハッピーエンドか、アンハッピーエンドかどうかすら関係なく、読後感がめちゃくちゃいい。
それに気付いてからは、その作家の名前をきちんと覚えて、その人の本を追いかけようと思った。それがチヨダ・コーキだった。


この何行かは、わたしにとっては大きな違和感でした。


図書館で無差別に選んだ本の数冊が、同じ小説家の作品である可能性は、はたしてどれくらいなのだろうか。この文章からは、少なくとも3冊は読んでいることになると思うけれど、図書館で無差別に選んだ本のうちの3冊が、同じ作家のものだったという偶然は起こるだろうか。でもまあそれは起こったのだとして。起こったのでしょう。「ただ感動することもあれば、泣きたいほど切ない気持ちになることもある。考えさせられ、悩み続けることもある。」なるほどそういう本はあるでしょう。しかしある作家のすべての作品の感想が「読後感がめちゃくちゃいい」なんてことは、はたしてあるのだろうか。でもまあ、それもあったのだとします。あったのでしょう。でもわたしは腑に落ちないのです。いろんな作家のいろんな本を夢中で読み続ける少女の最大の感想が「読後感がめちゃくちゃいい」ということに。少女はたくさんの本を読んでいます。無差別に選んだ本の数冊が同じ作家の作品になるくらいたくさんの本を読んでいます。それほどたくさんの本を読んだ少女と本との最高の出会いが「読後感がめちゃくちゃいい」ということに、わたしは違和感、というよりはもう、反発を覚えるのです。たくさんの本を読んだら「自分の気持ちを代弁してくれていることに驚いた」り、「あまりの文章の美しさに鳥肌が立った」り、「主人公の悲しみに喉をつまらせた」り、「発狂するほどの興奮を覚えた」り、いくつものさまざまな経験があるはずです。そういう読書を通しての「経験」が「読後感がめちゃくちゃいい」という感想に取って代わられるとは、どうしても思えなくて。


共同生活の違和感と、そうした反発が、わたしにとって作品全体を「作り物めいた」風にしてしまったので、千代田光輝が死にたかった話も、彼のために128通の手紙を書いた少女もやはり死にたかったという話も、誰かが作った話としてしか読むことができませんでした。


でもそんな、ほとんど言いがかりみたいな文句をつけなくてもいいじゃないか。とは思うんですけどね。