『人間失格』太宰治


人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))


以前にも一度ならず読んだことのある作品の感想文が、検索しても出てこなかったのには意外な気がしましたが、今ここに感想文を書こうとして、さもありなん、と納得しています。以前のわたしも同じ困難を抱えたのでしょう。


ひとりの男が堕落していく様子が、本人の手記として綴られています。この堕落を、さてわたしはどう思うのか、というところで行き詰ってしまうのです。可哀想だと思うのか、自業自得だと思うのか、親が悪い気もします、女が悪い気もします、友に恵まれなかった気もするし、周りの大人が醜悪だったようにも思います。精一杯生きようとした男のようにも見えるし、自分では何ひとつ努力しなかった男のようにも思えます。この主人公をどう見るか、この主人公がどう見えるか、というのはそのまま、わたしがどれほど人間を欺いて生きているかの問いでもあるように思えて、言葉に窮してしまうのです。


主人公の葉蔵は、互いに欺きあっていながら傷つきもせず「清く明るく朗らかに」生きている「人間」を恐れています。あまりに恐れているために葉蔵もまた、周りの人間を欺いて生きています。人間への恐れから逃れに逃れて逃れられずに堕落してしまう男に「わたしは何を思うか」ということを考えると、生きることへのポジティブな意欲が奪われていきますので、やめてしまうのです。考えたってしかたない、と。そうしてやめてしまうことが、人間を欺きながら生きていくことへの肯定だとしても。


ただ拙いながらもわたしの社会的な目で葉蔵の生涯を見たとき、家がお金持ちだったことが彼にとっては不運だったなと思います。東京の高等学校に合格して上京したときに、最初は寮生活を始めるのですが、団体生活に馴染めないために、上野にある父親の広い別荘に移り住むのです。監視する人がいないので、学校もさぼり気味になり、知り合った学生からは酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想を教えられ、いよいよ遊びほうけていた折りに、父親がその別荘を売り払うことを決めてしまうのです。その家にいれば仕送り以外にも一切が、近所の店からツケでもらえていたのが、急に月々の定額の仕送りだけで間に合わせなければいけなくなって、葉蔵はたちまち「金に困る」のです。酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想に溺れていた学生が金に困ったら、ろくなことにならないのはわかりきっています。わたしはここが、彼の人生の分岐点だったように思います。葉蔵の内面がどれほど周りと隔絶していたとしても、葉蔵がどれほど人間を恐れていようとも、「金」という物質的な価値の扱い方次第で、社会との隔絶は避けられたかもしれないし、金とはそういうものではなかろうかと思います。


けれど、葉蔵の「恥の多い生涯」は、つまるところ「金」が原因だったと言ってしまうことは、哀しすぎる感じがします。


余談ですが、amazarashiというロックバンドの歌に「無題」というタイトルの歌があります。歌詞の中に「誰もが目を背けるような人の浅ましい本性の絵」が出てくるのですが、わたしは「誰もが目を背けるような絵」なんてあるかなぁ、と思っていました。
人間失格』の作中で、葉蔵が自画像を描くくだりがあるのですが「自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上がりました」とあります。これのことか、と思いました。「誰もが目を背けるような人の浅ましい本性の絵」は、たぶん「自画像」だ、と。