若気の至り

日本の変革を求めて熱弁をふるう左翼学生は資本主義を倒し人間革命を起こすのだと言います。そういう彼らを冷ややかな分析をもって眺めているのが主人公の江藤賢一郎。


君の考え方は若気の至りだな。生きるということは即ち妥協することじゃないか。君は現実と妥協することの意味を誤解している。現実を否定し、現実の社会を敵にまわそうとしている。しかし君、一体現実を否定するって、どんな事だ。そんな事が可能なのかい。君がいくら否定したって、現実は眼の前に厳然と存在しているじゃないか……(9項)

なるほど、もっともな言い分です。

学生の頃の自分を思い返してみると、わたしはどちらかと言えば、いや、比較するまでもなく、左翼学生側の姿勢を持った人間でした。それは革命を起こそうというようなアグレッシブな点でということではなく、また、社会主義思想を持っていたいう意味でもなく、単純に「現実の社会に対して変革を求める」という姿勢においてです。生きるということは即ち妥協することではなく、自分の主義や思想、情熱を貫き通すことだと信じていました。要するに「若気の至り」というやつですね。江藤が言うように、社会で暮し生きて行くことがどういうことかというのを何もわかっていなかったし、現実を知らず、自分の頭の中にある言葉だけを信じて生きていたような気がします。だからここで江藤が言うことはちくりちくりと胸に刺さりますし、いちいち肯けるものでもあります。
ただし、だからといって彼の物の見方を全面肯定するわけにはいきません。それはわたしの魂に賭けてできない、とやはり思うのです。魂なんて語を出すと大袈裟な言い方に聞えるけれど、決して問題を拡大しようとしているわけではありません。生きるということは、つまりはそういうことだと思うのです。社会の中における自分の魂の使い方である、と。社会の中で生きて行くことには、不条理というものがいくらでも転がっています。その不条理に対してどこまで譲り、どこから譲らないかということの判断が、要するに魂の使い方であるとわたしは思うのです。そして、その判断が個人の幸福の基準にもなるのではないかと思うのです。誰かの物差しで判断すると、自分の幸せというのは永遠にわかりません。自分の経験と知識とで自分の物差しを少しずつ作っていって、その物差しにしたがって正しい判断をすることが幸せへのひとつの道ではないかとわたしは思います。
江藤の物差しは、江藤の幸せへの道に繋がる可能性はあっても、わたしの幸せには繋がらないだろうと思うのです。そう判断できることが大切なのだと、わたしはまた自分に小さく言い聞かせるのでした。
若気の至りがまだ抜けていないのかもしれません。






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