『空飛ぶ馬』北村薫

朝の読書習慣2015の3

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

表題作を含む5編が収められたオムニバス形式の一冊。


織部の霊
・砂糖合戦
・胡桃の中の鳥
・赤頭巾
・空飛ぶ馬


日常的な景色の中で出会う「ミステリー」を題材にしています。<織部の霊>は、一度も会ったことのない人を何度も夢に見る、というミステリー。<砂糖合戦>は、喫茶店で三人の女の子がティーカップに6杯も7杯も砂糖を入れる、というミステリー。<胡桃の中の鳥>は、旅先で駐車していた車からシートカバーだけが盗まれる、というミステリー。<赤頭巾>は、日曜日の夜9時の公園に小さな女の子がじっと立っている、というミステリー。<空飛ぶ馬>は、クリスマスに幼稚園にプレゼントされた木馬が、一晩だけ消えた、というミステリー。


探偵役を務めるのが春桜亭円紫(シュンオウテイ エンシ)という落語家である、というところがユニークです。この円紫さんと女子大生の「私」がこれらのミステリーに挑むのですが、その挑み方もまたユニークです。
「私」が円紫さんにミステリーを語るのです。こんな不思議なことがあったんです、と。その話を聞いた円紫さんは、聞いただけで、ミステリーを解決してしまいます。「私」の言葉を借りれば、それは円紫さんの「千里眼」です。
「私」は円紫さんに物事を説明するだけで、そのミステリーの解決にはなんのアイデアも持ちません。ミステリーは、円紫さんの「千里眼」によって解決されてしまうので、「私」がミステリー解決のために、何かアクションを起こしたり、円紫さんの手助けをしたりするようなこともありません。つまりこのふたりは、指一本動かさずに、会話で「挑む」のです。(言い過ぎましたが、実際にはちょっとは動きます。)


読者はミステリーに挑むふたりの会話を共有します。そこに流れるのは静かで丁寧な、思いやりのある時間でした。まさに、この小説の中に登場する「アド・リブ」という喫茶店で、おいしい紅茶が注がれているような、そういう時間です。


こういう小説を良品、といえばいいのでしょうか。たとえば、旅先で見つけた「なんだか心惹かれるけれど、買ってもどうせ使い道ないし」と、その場に残してきてしまって、でもずっと長いこと覚えている、そういう記憶のスーベニアのような、ちいさな物語。


この小説のミステリーは、誰かの生活の中の「ちょっと必死になった瞬間」に生まれていて、だからこれらの不思議は、解決されなくてもいい「ミステリー」なのだと思います。そっとしておいてあげればいい。そういうミステリーがわたしたちの身の回りにあることをこの小説は感じさせてくれるし、そしてそれらの不思議は、わたしたちの暮らす場所を、常に少し、美しくしてくれているのだと思うことができます。




誰かの不思議が、今もたぶんこのあたりで、そっと息をしているのでしょう。